沼野充義先生最終講義「チェーホフとサハリンの美しいニヴフ人―村上春樹、大江健三郎からサンギまで」聴講記録

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感染症の蔓延を受けオフラインイベントは軒並み中止される中、東京大学名誉教授の沼野充義先生の最終講義がYoutubeで生放送されました。ここに聴講者としてその講義のメモを残します。

なお講義は後ほど公開される予定だそうです。わたしの聴講記録には不足や不正確な部分もあるかもしれません。講義が公開されたらそちらをご覧ください。

また下記には村上春樹氏の『1Q84』及び大江健三郎氏の「幸福な若いギリアク人」と言う作品の重要部分に関する記述があるのでご注意ください。


講義概要

世界文学という概念を身近にしてくれる「最新」講義。
表題の作家について一人ずつ掘り下げるのではなく、つながりを読み解いていく。

サハリン本屋事情

ユジノサハリンスクの小さな本屋に日本人コーナーがあり、3人並んでいるのが三島由紀夫、村上春樹、カズオ・イシグロ。カズオ・イシグロは日系イギリス人であるが、ロシア人からすると日本の精神を下敷きにしており日本の作家のコーナーに置かれる存在である。

かつて『東京するめクラブ』で村上氏一行を案内したロシア人通訳者・翻訳家のコヴァレーニンさん。村上氏らを受け入れ、案内する側から見た光景を『スシ・ノワール』という作品にまとめた(ロシア語、和訳未出版)。

村上春樹70歳を(勝手に)祝う「読者の会議」 をユジノサハリンスクで開催し、コヴァレーニンさんの招待で沼野先生も参加した。

村上春樹氏とロシア文学

村上氏は一般的にはアメリカ文学の申し子のように言われる一方、実はロシア文学にも傾倒していた。1985年の年代に中上健次氏と村上春樹氏の対談で、フォークナーを師と仰ぐ中上に対し、村上はフィッツジェラルドではなくトルストイやドストエフスキーなどのロシア文学をあげた(入沢, 1985)。

ポストモダン的遊び

『海辺のカフカ』について。沼野先生の世代だったら口にするのも憚られる世界文学の中心カフカを、海のない国(チェコ)出身のカフカを、海辺という無関係のものと結びつけ小説のタイトルにする、これはポストモダン的遊びの精神である。

また村上氏のデビュー作である『1973年のピンボール』の下記記述にも、軽妙な会話の中で突如ドストエフスキーを持ち出すあたりポストモダン的遊びの精神は現れている。

“「殆ど誰とも友だちになんかなれないってこと?」と209。
「多分ね」と僕。
「殆ど誰とも友だちになんかなれない」それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。
ドストエフスキーが予言し、僕が固めた”(村上, 1980)

1Q84におけるチェーホフの引用

村上氏はたびたび作品の中でチェーホフを引用する。

チェーホフはサハリン調査を行い、『サハリン島』という作品を書いた。 医師であり作家であったチェーホフにとってどちらの仕事でも必要でなかった調査を行ったのはなぜか?これは未解決の謎である。

タナトス、女性関係の悩み、都会の喧騒を避ける目的などがサハリンを取材した理由にあげられる。しかし病気を押してまで調査に行ったのは謎めいている。

その調査票は100年以上秘蔵されてきた。ソ連崩壊まで隠遁されてきた資料がたくさんあり、その中の一つである。

その資料の一つに、サハリンでの調査は「原則がない」と批評されたことに対しチェーホフが非常に憤慨した記録が残されている。当時のロシアでは「原則がない」というのは行為に一貫性がないと言われることであり、ちゃらんぽらんと同義であったため。

村上氏は当時チェーホフの受けた不当な扱いについて、『1Q84』の中で登場人物の天吾を通して次のように書いている。

“チェーホフは小説家であると同時に医者だった。だから彼は一人の科学者として、ロシアという巨大な国家の患部のようなものを、自分の目で検証してみたかったのかもしれない。自分が都会に住む花形作家であるという事実に、チェーホフは居心地の悪さを感じていた。モスクワの文壇の雰囲気にうんざりしていたし、何かというと脚を引っ張り合う、気取った文学仲間にも馴染めなかった。そこ維持の悪い批評家たちには嫌悪感しかなかった。サハリン旅行はそのような文学的垢を洗い流すための、一種の巡礼的な行為だったのかもしれない”(村上, 2009)。

続く節の中で「社会的コミットメントを求め厳しい状況下で真摯に調査を行ったが、売名行為という批判がなされた」というの旨を書いているが、実際のところ、チェーホフに対する批判は「売名行為」とまでは言われていない。

これはむしろオウム真理教事件を取材した際の村上氏自身に対する当時の状況に似ている。『underground』及び『約束された場所で』に対する激しい批判である。

ジャーナリズム作品に対する批判という観点から見ると、この作品に対する当時の評価は、社会に受けれられ反響を呼んだ『苦海浄土 わが水俣病』の石牟礼道子よりも、世間に激しく攻撃された『戦争は女の顔をしていない』のアレクシェーヴィチに近い。

「かわいそうなギリヤーク人」と「すてきなギリヤーク人」

『1Q84』の登場人物であるふかえりの発した印象的な二つの言葉がある。

天吾がふかえりにチェーホフの『サハリン島』を読むシーン。ふかえりはチェーホフのギリヤーク人に関する描写を聞き、「きのどくなギリヤーク人」と言う。しかし、天吾が「ギリヤーク人は道をつくってもその真ん中を歩かない」という節を読むと、彼女は翻って「すてきなギリヤーク人」と言う。ひとつの文化には「よく見えること」と「悪く見えること」の両方があるということを語るシーンである。(村上, 2009)

実際は小さな注釈であり読み飛ばす読者が多いところであるがあえて村上氏はそこを抜き出した。作品内のこの箇所ではふかえりを通じて周縁から周縁へと目線を移している。また、少数民族は極めて象徴的に、真ん中ではなく道の端を歩いている。

また「チェーホフの銃」という小説や劇作におけるテクニック・ルールがあり、『1Q84』の中でタマルという朝鮮系の出自を持つ人物がそれに言及する。“物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはいけない”(村上, 2009)。


※ ここからはわたしの補足です。

同作品の登場人物である青豆は、BOOK2の最終章で銃を口に含み自殺を図ります。しかし、彼女は自殺を中止し、物語は第三部、BOOK3へ続く。「チェーホフの銃」は発射されませんでした。

もともと1Q84はバッハの平均律クラヴィーア曲集に倣って章を構成しており、この曲集は2篇であることから本来1Q84もBOOK2で終える予定だったと村上氏は語っています。しかし当初の予定に反し、翌年BOOK3が発表されました。

※ ここまで補足


ニヴフ(ギリヤーク / ギリアーク)について

民族名としての「ギリヤーク」は現在使われず、彼らが自称する「ニヴフ」を使う。アジア系民族であり、言語学上も興味深い系統を持つ。 現在ニヴフとして数えられているのは4666人、うちニヴフの集落の居住者は2500人。伝統的なサケマス・海獣漁は衰退し、消滅の危機にある。

ニヴフと大江健三郎

この民族が文学作品に登場するのは稀であり、大江健三郎の2つの作品がすぐに想起される。

「幸福な若いギリアク人」

大江健三郎の短編小説。

20歳の製材工である青年は、色が黒く勤め先の同僚からインディアンとよばれていた。終戦後に母親と二人で樺太から引き上げてきた青年は自分の出生について疑問を抱いたことがなかったが、あるとき人から「おまえは、ギリアク人だ」と断定的に言われる。それまでギリアク人について全く知識を持たなかった青年は、初めて自分のアイデンティティに興味を持つ。ギリアーク人の老人に出会い、「晴れ男」という言祝ぎを得たことで、彼は自身のアイデンティを確立し幸福感を得る。

この時期の大江氏にしては珍しいハッピーエンドの作品。

『青年の汚名』

大江健三郎の長編小説。

ニシンの不漁と風土病にさいなまれる北海道の島を舞台に、古い風習を守る長老と若者たちとの対立を描く。登場するアイヌ及びギリアークは使役されており、主人公である和人の若者はアイヌを嫌っている。

ニヴフ及び非ロシア人民族作家

ウラジミール・ミハイロヴィッチ・サンギ

唯一のニヴフ民族作家。

漁業範囲が日本の石油開発区域と重なっていたために日本のスパイと言われ父を殺された。

寄宿学校に入れられた後は、自民族の言葉を禁じられロシア語を話すように言われた。

その悔しさや悲しみから「犬は右へ 犬は左へ わたしは故郷の村へ」というニヴフの言葉の詩が内から出てきた。彼の初めての詩である。

クハイ チュイ フゥイ ヌィク ヌィク

《ケフヴォ》ロフ ヴィ ヌィク ヌィク

女性校長は怒った。ロシア語を話す指導をするよう指示されていたからである。翌日彼女はクビになり、丸太割りをさせられていた。サンギ氏が禁止されたにもかかわらず母国語で(初めての)歌を作ったために。

チェーホフについてサンギ氏は次のように述べる(2020年2月6日のメールより)。

ニヴフ人を植民地化しようとするサハリン総督の意図に対し、チェーホフは『サハリン島』において「何よりもまず彼らの意見と、利益と、特徴を考慮に入れなければならない」と答えている。もしこのチェーホフの助言に現在の政治指導者がしたがっていれば、ニヴフ人は帰還不能の一線(point of no return)を超えてしまった。つまりニヴフは滅びるしかないということを述べている。

非ロシア人民族作家

  • ブラート・オグジャワ(グルジア/アルメニア人)1924-1997
  • ファジリ・イスカンデル(アブアジア人)1929-2016
  • ユーリィ・ルィトヘウ(チュクチ人)1930-2008
  • ゲンナジー・アイギ(チュヴァシ人)1934-2006
  • アナトリー・キム(朝鮮人)1939-

質疑応答

参考文献

  • 入沢康夫 (1985). 特集 中上健次と村上春樹 「國文學 解釈と教材の研究」 3月号
  • 大江健三郎 (1974).『青年の汚名』 文春文庫
  • 大江健三郎 (1994). 幸福な若いギリアク人 『大江健三郎全作品』3巻 新潮社
  • 村上春樹 (1980).『1973年のピンボール』講談社
  • 村上春樹 (1998).『underground』 文藝春秋
  • 村上春樹 (1998).『約束された場所で underground 2』 文藝春秋
  • 村上春樹 (2002).『海辺のカフカ』 新潮社
  • 村上春樹 (2009).『1Q84 BOOK1 <4月-6月>』 新潮社
  • 村上春樹 (2009).『1Q84 BOOK2 <7月-月>』 新潮社
  • 村上春樹, 吉本由美, 都築響一 (2004).『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』 文藝春秋